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一 Missing Power

 余りに眩しい。私は左手で目の上に笠を作って空を見上げ、狂ったような青空と叩き付ける様な太陽を睨んだ。じんわりと汗ばむ体に服がぺたりと貼り付いて気持ち悪い。
「異変じゃないでしょうね」
ぼそりとそう呟いた。それから少し考えて、私は両手で竹箒を持ち直し、再びそれを振り出した。異変ならきっと誰かが教えに来てくれるだろう。知らせが無いということが、何よりのよい知らせである。
「れーいーむー」
縁側にいる萃香の恨めしそうな声が聞こえて来る。
「一緒に飲もうよー」
その台詞を口走った彼女の姿を想像して、私は大きく溜息を吐いた。
「ね、今日暑いじゃん。こういう時はさ、こう、雪冷えのさ、辛口のさ」
「萃香」
いやに楽しそうに弾む声で酒の席に誘い込もうとする悪鬼を、出来るだけ落ち着いた声色で窘める。
「貴女ね、この前も言ったけど、昼間からお酒を飲むのは良く無いと思うわよ」
「えー、なんでさー」
予想に反せず萃香は不満そうだ。
「いいじゃないの、お盆前でみんなどっか行っちゃってて、誰もいないからさ。霊夢と一緒にお酒でも飲もうかな、そしたら楽しいかな、なんて期待しながら来たのに」
「お盆前がどうとか全然関係無いでしょ。いつもそこで飲んでるじゃない。どこかにみんな行っちゃったとかって下りは何なのよ」
そう何でもない風を装って返してはみたが、箒を握る手に力が入って細かい砂粒を巻き上げているのが掌を通じて分かる。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き戻す。これでは庭を綺麗にしているのか汚しているのか、全く分かったものではない。
「それは本当。私は霊夢が起きてる時はここで飲んで、そうでない時は今度は地底の鬼たちと呑み比べして遊んでるの。ほら、勇儀とか」
「飲み比べが遊び、ねえ」
私の気持ちなど汲み取ろうともせず、彼女はまだ何事か言っているようだ。私は思わず手を止めて、もう一度大きく息を吸い込み直した。
「ザルね、貴女は」
呆れたような弱い声が、境内に水紋のように広がっていく。
「ザル?ワクじゃなくて?」
「訂正するわ」
彼女のからかう様な声が疎ましく思えて、私はそれだけ呟いた。そして竹箒を抱え上げると、左肩の少し欠けた鳥居をくぐって石段へと向かう。萃香が自分の名前を呼んでいることは何となく分かったけれど、とにかく今は先に社務を終わらせなければ。彼女の相手はそれからでもいい。昨日は自分以外に誰も通らなかったこの道をゆっくりと箒を走らせながら下りる。こういう時に咲夜の力があったら良いのに。時が止められたならあの駄々っ子を大人しくさせておいて、その間に自分は掃除やその他の片付けておきたい事が出来るだろう。萃香がいると、どうもペースを狂わされてしまう。彼女がそこにいると、本来やらなければいけなかった事も放ってしまって、どうでもいい世間話を延々としてしまうのだ。そのこと自体に問題は無いのだが、いつもそうでは人としての生活を崩されてしまう。ここのところ毎日彼女が来ているせいで、炊事や洗濯もかなり疎かになっていた。掃除は毎日、これは社務の基本だからするものとしても、洗濯を怠って、明日着る服が一着も無い、なんて状態に陥ったことも度々だ。食事は彼女が酒の肴にと持ってくるもので全て済ませてしまっているからか、最近少し太ったような気もする。とにかく、ペースを萃香に全て持っていかれてしまうのだ。けれど、それを私は怒る気にもなれずにいた。それは元より萃香が何か悪さをしているのでは無く、そういう方向に流されている自分の弱さが元凶なのだと気付いているからかも知れない。石段の一番下まで掃き終わると、今度は折り返して島来た道を上って行く。この石段は幻想郷に住んでいる多くの者には何の役にも立ちはしない。萃香は毎日空を飛んで来るし、たまにやってくる紫だってスキマを使っていきなり私の前に顔だけ覗かせていたりする。人並みはずれた能力を持ちながら階段を上ってきたのは、聖白蓮くらいか。信心深いのか、ただ運動になると思ったのかはさておき、少なくとも他の不信心極まりない者共よりはよっぽどましだろう。特にこの間、残像が見えるかと思うほどの速度で飛んできて鳥居を破壊し、ろくに弁償もせずにどこかに飛び去って行ったままの、あの馬鹿魔法使いに比べれば、よっぽど。
「まったくどいつもこいつも、ろくでもないわね。」
何故今になってこんな事を急に思い出したのだろう。どうにも苛々してしまうのは暑さのせいかも知れない。そうであって欲しい。また適当に秋が来て、冬が来るだろう。炬燵の中で蜜柑を頬張っている頃には、もっと穏やかな気持ちでありたい。私はもう一つ大きく溜息を吐いた。
 「掃除終わった?」
箒を抱えて神社の裏手に回ると、足を外に放り出したまま縁側に寝転がっている萃香の姿がちらりと見えた。
「ええ、まあこれで一通りは」
「ホント!?」
やる気の無いその返答で、彼女は風を切る音がこちらにまで聞えて来そうなほどに素早く起き上がる。
「飲もう」
爛々と輝く瞳を向けている萃香を一蹴するように、出来るだけ感情を込めずに返す。自然と眉が吊り上がり、ふい、とそっぽを向いてしまう。
「私には昼間からお酒を飲む趣味は無いの。残念だけどね」
「いいじゃんか、そんなこと言わずに」
目だけでちらりと萃香の方を見る。口先は尖り、眉は垂れ下がっている。絵に書いたような彼女の不満げな顔に少しだけ私の悪戯心のスイッチが入った。
「良いわよ」
「やった!」
そう萃香が喜んだのを聞いてすかさず、
「お茶なら付き合ってあげる」
と続けてやる。
「いけず」
卑しい期待に胸を膨らませて萃香を見ると、先程よりもかなり不満そうにその赤く柔らかそうな頬を膨らませている。彼女の素敵な表情が私の心の底でぞくぞくと震えて、次第にじんわりと広がっていく。その快感で、私の身体にふわりとした電気が流れて、思わず身震いする。口元が自然と緩んだのを咳払いで誤魔化して、尚も機嫌が悪そうに続ける。
「大体、貴女は私が掃除してる間もずっと飲んでたでしょ」
「そんなには」
「嘘おっしゃい」
箒を外壁に立てかけると、再び寝転がってしまった萃香の右隣にそっと腰掛けた。
「どれくらい」
「うーん、六合位かな」
「それ、私の知っている『ちょっと』とは違うわ」
私は呆れたように庭の向こう側を見つめながら、独り言のように呟く。
「いやいや、私にとっての六合なんてあれよ、朝御飯と一緒」
「何それ」
「無いと調子が出ないもの、ね」
蔑むように左後ろを睨み付けると、萃香はどこか得意気な顔でこちらの方を見返している。
「したり顔してんじゃないの」
「こういうのね、最近は『ドヤ顔』って言うらしいよ」
「『ドヤ顔』?ドヤ街ってのは聞いたことがあるけど」
「阿求が言ってたって」
「へえ、それじゃあ正確かも。誰から聞いたの」
「チルノ」
「それじゃあ駄目ね」
思わず私は、ふん、と鼻で大きく息を吐いて、草履をそこに脱ぎ置いた。
「ねえ霊夢、本当に飲まない?」
部屋の奥に向かって歩き出した私の背中に向かって、尚も彼女は繰り返す。
「いいじゃん、今日暑いでしょ。私はお酒が良いけど、霊夢はビールでも良いんだよ」
「貴女もしつこいわね、今は飲まない。何度も言わせないでよ。それに、ビールだってお酒なのよ、立派なね」
よっ、と掛け声を小さくあげながら背伸びをして、食器棚の一番上から木彫の器を取り出した。余り使っていなかった気もするが、埃を被っていないのは日頃の私の掃除が行き届いている証左ではないか。少し得意になって、左手にある茶箪笥から煎餅を数枚からからと入れる。それを萃香の少し後ろ、日が当たらない所に置くと、
「お酒の当てにはならないでしょうけど、塩っ気の強いものばかりじゃ体壊すわよ。」
と言って、また台所へと引っ込んだ。
「いいじゃないのさ、けち。鮭とばとかさ、いいじゃんか」
萃香は私に文句を言っているのか、それとも煎餅に文句を言っているのか、どっちか分からないような曖昧な怒りを投げかける。それを背中に受けて、
「はいはい」
と返した。直後、がりりと煎餅をかじる音が聞えて、私は思わず小さく笑ってしまった。

 流し台の下から包丁やまな板を取り出す。今朝早くに頂いたものを下処理だけでもしておかないといけないだろう。夏の生ものは足が早い。それに今から準備を始めないと、どうも今晩には間に合わないような気もする。その最悪の事態だけは絶対に避けたかった。最低限必要そうな道具を置くと、私は台所の床に無造作に置いた紙袋に目をやる。
「しかしね」
そしてその事を考えて、私は彼女に釘を刺す事にした。
「何よ」
紙袋から大きな魚を取り出す。魚など良く分からない私だが、これがどうやら「鯛」というものであることは知っていた。そして、それが目出度い席に相応しい役者である事も。
「今日はもうお酒控えた方がいいんじゃないの」
「え」
その戒めの言葉に萃香は戸惑ったような声を挙げた。
「ずっと飲んでるし」
「そりゃあ、鬼だもん」
がりがりと包丁の背で鱗を剥がして、続けてその身に刃を突き立てる。
「霊夢は私がお酒飲むの、そんなに嫌?」
「別に嫌かって聞かれたらそれ程でもないけど」
「じゃあ良いじゃないの」
はっきりとそう言い放った萃香の声に、
「でも、ねえ」
と声が鈍る。私は美しく雪のように白い身が赤い表面から覗くのを眺めていた。
「何がでもなのさ。私、何かいけないことした?」
彼女の声に力が入って行くのを感じたが、私はそれを止めようともせずに呼びかける。
「萃香」
不意に包丁が止まる。
「何さ」
沈黙が痛い。いっそ言ってしまっても良いかもしれない。でもそれって、あんまりじゃないか。私一人が浮かれていて、何とも道化師のようで。いや、道化師は自分の仕事を全うしているのだ。強いて言うなら、今の私は道化師的であって、道化師ではない。段々全てが馬鹿臭くなってきた。きっと今日の事を心待ちにしていたのは私だけだったのだろう、と、そう思えば思う程に、今この場で全てを言うことがためわれた。
「・・・いや、いいわ」
そうして、やっと精一杯出てきた言葉は、可愛らしくも同情的でも無い、ただの戯言だった。
「何なのさ」
萃香の怒ったような声が、私の背中に突き刺さる。
「もういい、今日は帰るよ」
「ちょっと萃香」
思わず振り返ると、勢いをつけて起き上がったばかりの彼女の背中が見えた。そして私の声は蝿でも追い払うかのような彼女の右手の動きにあっさりと拒否された。
「ごめんね、迷惑かけて」
そう言いながら、彼女は縁側から飛び降りた。それからちらりと振り返ることもせずに続ける。
「もう、邪魔しないから」
「萃香!」
私はそう絶叫した。間違いなくその声は萃香に届いたはずだった。けれど、彼女はそれを気に掛けようともせずにふわりと宙へ浮いて見せる。はたはたと縁側まで私が駆け寄ったのを気取ってか、彼女はそのままでは手の届かない高さまでゆっくりと浮上した。
「さよなら」
そして、彼女はそのまま森の上を逃げるように飛んで行ってしまった。後に残された私は一人、縁側に力なく座り込む。萃香が飛んでいく姿は直ぐにけし粒程に小さくなって、やがていつの間にか現れた大きな黒い雲の中に溶け込んでいった。やがてあの黒い一団は積乱雲を伴ってどこかで土砂降りになるだろう。それでも夕立にはまだ早い。

 私はその場でしばらく呆然としていた。やっていた事と言えば森の向こう側を眺めていたくらいで、こんなにも何も無い午後を過ごしたのはしばらく振りだった。気が付けば日は傾いて、私の目の前が橙色で一杯になる。蒸し暑かったはずの庭は、いつの間にか心地の良い涼風に変わっている。私は大きく息を吐き出した。
「私が悪かったのかな」
そう呟いてみても、虚しさが心の奥から次々とこみ上げて来るだけで、その他には何も無かった。萃香は泣いていたのだろうか、私の心も知らずに。だとしたら泣きたいのはこちらの方だ。
「私」
ちりん、と風鈴が応える。自然と涙が零れ落ちて、私はそこに出来るだけ小さく丸まった。
「私が悪かったのかな」
風鈴は何も言わなかった。私は彼女に帰ってきて欲しかった。ただ、それだけで良かった。その一事が叶わないだろうと、そう思えば思うほどに。


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