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川霧が立ち込めている。自分以外何も存在しない真白の世界が形成されているが、木々の隙間から指す光芒のため暗さは全く感じない。幻想郷は朝を迎えていた。

 立ちこめる川霧のため姿容は見えないが、三途の川の水を掻く櫂の音が一定のリズムを保って方々から聞こえてくる。全ての幽霊を彼岸に運ぶためには早朝から出勤しなければ間に合わない。今日も此岸は渡河待ちの幽霊で満ち溢れているだろう。

 小野塚小町もその例に漏れず、渡船を走らせていた。彼女の舟は軽快に水面を走る。それはまだ此岸の幽霊を載せていないからか。空を仰ぎ見て陽光を反射する霧のまぶしさに目を細めては、のんびりと舟を漕ぐ。
「なんて良い天気なんだ。霧間から指すお天道様の光ほど、体にしみわたるものは無し。気を抜いたら眠ってしまいそうだ」

 現状に満足したように満面の笑みを浮かべると、彼女は舳先が此岸に向いている事を確認してから、またゆっくりと舟をこぎはじめた。

 こん、と乾いた音が鳴り響く。此岸の桟橋に舟が到着した証拠だ。
「いやはや、もう到着してしまった。もう少し時間がかかると思ったんだけどねえ」
空を見遣ると、太陽はもう完全に姿を現していた。小町はゆっくりと周りを見渡す。周りに渡船が見えない事を確認すると、彼女は満足げに渡河待ちの幽霊を自らの舟に招き入れた。

彼女も何も考え無しに遅く到着している訳ではない。善行に善行を重ねた幽霊は他の死神船頭が連れていく。徳の高い幽霊は短時間で渡河できる上、渡し賃も多く儲けに直結する上客だが、彼らの経験はたいして面白くない。むしろ悪い事をしてきた奴の方が、波乱万丈奇々怪々な経験を積んでいる事が多く、総じて面白い。どんけつに陣取ることで、面白い経験を持った幽霊を一人占めにしているというわけだ。これが彼女の日課でもある。彼女は再び、あたりを見回す。
「今日も幽霊が少ないねえ。人の寿命も延びていると聞くし、そろそろ渡河のピークかねえ。これであたいの仕事が減ってくれれば助かるんだが…そんなに世の中甘くはないね。せいぜい『とても忙しい』が『忙しい』に変わるくらいか」
と一人ごちてからからと笑う彼女を舟に乗ろうとした幽霊が不審そうな視線で見つめていた。
「ほれほれ、さっさと乗んな。ぐずぐずしていると、あんたを置いて行っちまうよ。さすれば次の渡河は二百年後だ、その間、お供え物も口にできない。あんたもそんなに待っちゃいられないだろう」
幽霊は急ぎ舟にのりこむ。二百年後など口から出まかせだが、彼女も時間は惜しい。できるところはさっさと終わらせるのが信条だ。無駄な事に時間をかけるほど彼女は暇ではない。
「よしよし、それじゃあ出発するとしますか」
櫂で桟橋を軽く押すと、舟は霧の中へと溶けていった。不意に視線を感じて振り向くと、桟橋に猫らしき生き物がいた。しかし、すぐに辺りは霧に覆われて見えなくなってしまった。此岸に幽霊以外が来る事なんてめったにない事だが、全く無い事でもない。小町はすぐに興味を失い、舳先を彼岸へと向けた。
「この船はぁー、此岸発ぅー、彼岸行きぃー。諸般の事情により、急遽行き先を川の中へ変更する事もございますが、どうかお気になさらず、船旅をお楽しみください。到着時刻は知りません。自分の心に聞いてください」
幽霊が居住まいを正した気配を感じ、小町は少し満足した。少しくらい萎縮してもらわなければ、面白い話は聞けそうもない。死神が馬鹿にされてはおしまいである。ここからどれだけ話を聞きだすかが小野塚小町の腕の見せ所だ。
「よーっし、一丁やってやりますか」
そう言って腕まくりをした彼女を見て、幽霊はまた少しだけ怖気づいたように見えた。



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